第1回 伊東篤宏インタビュー|山口小夜子×高木由利子「蒙古斑革命」

第2章 日本画から蛍光灯へ

山口
日本画から蛍光灯へはどう移行されたんですか?
伊東
蛍光灯が作品として出てきたのは大学院を出て1年後の94年頃ですね。音はまだ絡んでこなくて展示作品として最初に出てくるんですが。最初は絵画作品を見せるライトボックス状の形で登場し、そのうちライトの上にのってる自分の描いた絵は本当に必要なのか?と疑問に思い始めて。蛍光灯そのものが美しいじゃないですか。じゃあいらないや、と。つまり最初はフレーム(額縁)の中に蛍光灯があったのが、次第にフレームを必要としなくなって展示空間での光りのインスタレーションになり......という順番ですね。
山口
それまでの日本画との関わりはあると思いますか?
伊東
僕の場合、作品の最初の発想と造っていくプロセスがやはり絵画的なんですよ。空間インスタレーションっていっても壁面から独立したものはほとんどなくて、平面的な使い方が多いんです。200本くらいの蛍光灯を壁面に配置するインスタレーションも、金箔を全面に施した屏風や襖に囲まれる感覚に近い発想からきていて。で、話はちょっと飛ぶけど、そういった大規模なインスタレーションの強度をコンパクトにできないかなあという発想から、スタンドタイプのオプトロンが生まれたんです。今は手に持って使用してますけど元々は置き型でした。こちらから観てください、っていう「正面」があったし、やはり空間的な発想よりも絵画的な正面性が大本にある。まあ、「日本画」との関わりというより、絵画との関わりかな、どっちかというと。
山口
顔料のかわりに光で、という感覚でしょうか?
伊東
そうですね、色々やってみて結局、顔料であれ蛍光灯であれ余計なことはしすぎない、余計な手は加えなくてもいいんじゃないか、と思ったんです。
山口
子供の頃の蛍光灯の遊びを思い出しました?
伊東
すぐに思い出しましたね。ラジオがプチプチ鳴るのとは違うんですが、蛍光灯を大量に使っていると何も増幅しなくてもブーンと鳴るんですよ、安定器が。唸るっていうか。そういうこともあって家でまた遊びながら実験しだしたんです。蛍光灯のスイッチング操作でラジオに反応させるだけでなく、アンプリファイしてみたりして。もっともその頃は操作性はとても悪いものだったし、音を安定させるのが凄く難しかった。それで拾ったノイズを録音してみたりしだしたのが1996~7年頃です。
山口
そこで蛍光灯を奏でてみようかと思われた?
伊東
いや、すぐには。最初はインスタレーションの延長として始めましたから。インスタレーション会場でちょっとサウンドパフォーマンスをやってみようか、と。視覚と聴覚、両方から攻めてみようかと思って。で、色々試して遊んでるうちに面白くなっちゃったんですね、自分的に。で、ノイズやってる人とかと何か一緒にやろうとオーガナイズもやってみたりして。恐れ多くも世界的に活躍していらっしゃるミュージシャンにも平気で「お願いします」と声をかけたりしたんですが、幸い面白がっていただけて。
山口
その蛍光灯の楽器......「音具」と呼ばれていますが、それがオプトロンですね。
伊東
はい。そうして遊んでるうちに今度は逆にオプトロンに展覧会のオファーが来たんです。その頃のオプトロンは何ヶ月もの期間の展覧会に耐えられる強度もなく、音を拾うシステムも安定していないしすぐに壊れてしまう可能性があったんですよ。なのでその展示がきっかけで、もうちょっと強度のあるものを造ったんです。それが2001年頃ですね。だからここ4~5年で一挙に進んできた感じです、オプトロンは。
山口
今のものはギターのように手持ちですが、昔は置き型でしたね。
伊東
初めの頃は身体性をあえて排除していたところがあったんです。身体性においてできることと、いったん距離をとりたかった。それは僕が元々美術家だということもあると思いますが、遠隔操作で動かすことで、操作する僕の肉体的な動きを極力封じるやり方をしていました。昨年まではそれを使っていたのですが、2003年頃からバンドをやりだして――といってもドラムとオプトロンだけのユニットでハードコアパンクスタイルの「音楽」をやる『Optrum/オプトラム』というバンドなんですが――、そのバンドを始めてから段々と身体的なダイナミズムが戻ってきましたね。今はオプトロンを手に持って使えるようにしたものを造って、それで「演奏」してますけど、置き型のものと比べると操作性と反応速度が全く違う! 今のものはすごくダイレクトなんですよ。自分の反応速度と音の出る(光る)速度が早いんです。
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