第2章 生への回帰、そしてロウソクとの旅

山口
実際に、ロウソクの光りを作品として創作しようと思われたたきっかけは、どのような事からですか?
JUNE
10代後半にとても悩んだときがあったんです。親元を離れて自分で生きていこうとしたときに「生きていくのは、結構、大変だなぁ」と思って。
それまではそれほど哀しいことも辛いこともなかったし、すごく愛されて育ってきたとも思います。ただ改めて全てを一人でおこなおうとすると、食べることも、家賃を払ったり、遊んだり、、。
生きていくということは、“もっともっと”ということじゃないですか。“もっと”楽しいことがあるかも知れないよ。とか、もちろん、哀しいこともあるけどそれを乗り越えると“もっと”楽しいことがある。とか、“もっと”頑張らなくてはいけない!とか。“もっともっと”と常にプラスに向かうことを期待される。それに対して、「なんか、もういいかなぁ」と。これで終わりにしてもいいかなぁ、と思ってしまったんです。
でも、なんでそこまで思ってしまうんだろうと考えるうちに、自分の中で起こってきたことを、一回外に出してそれと向き合おう、と絵を描いたり、言葉にし始めたんです。そうは言っても、表現するとなると誰かと比べてしまって、また苦しい。
もういいかなということで、自分で死のうかな、というのもあったんです。「もっともっと」しなくてもいい選択の一つ。ただ死ぬというのも、最後の自分のアクション、最後の制作、自分の死を創るということですよね。何かを創って表現したら変わるかもしれない。その製作の最後が、近しい人たちの悲しみを作るものでしかないとしたらこれは何か違う。
そしてまだ自分が自らの意思で「生きていない」ことに気がつき、同時に積極的に「生きること」をおこなっていけば自分にとっての「正しい死」が迎えられるんだ。と
死ぬか生きるか、という極論のもとでようやく、自らの意志で生きるんだ、と立てたような気がしました。
山口
生か死かのギリギリのところで転回されたんですね。
JUNE
もし貧困に苛まれていたり他の国に生まれていたら、生きるということに対して貪欲になるはずが、今の日本だと自分だけでなく悩んでいる人たちが多いんじゃないかと思うんです。
生きていることが当たり前すぎて、改めてそこで悩んでいる人が多いんじゃないかと。
自分の場合は、引きこもるというか、自分との会話をすることで、気づきがありましたけど。
そういう自分と向き合う時間の中で、ロウソクが自分との会話のパートナーとして役立ってくれて。
山口
ロウソクのともしびが自分自身との会話のパートナーとして登場したんですね。
JUNE
でもお金もなかったので、無くなったらまた残ったロウを溶かして自分で作る。ということをしていたので、自然にろうそく作りを始めていたんです。灯していくうちに、最初は小さいのが1個だけだったのが、もっとあればいいな、と数を置くようになり、でも、あまり多すぎると火が恐いから逆に落ち着かなくなり、じゃあ、大きいのが1本ドンとあればいいか、と。
また、作ったロウソクは、人にもプレゼントしやすかったんですよね。ロウソクは使えばなくなってしまいますし、さほど贅沢なものでもない。人に自分の作っているものを自然に渡すことができたことで、ずいぶん救われましたね。
山口
各地を旅してロウソクを灯す活動を始められたのは?
JUNE
最初はただ自分との会話用に灯していたんですけれど。そうこうするうちに人がどんどん家に集まるようになり、増えすぎたので外で灯すようになり、音楽も好きだからイベントのステージで灯したり。これからロウソクで食べていく、というつもりはなかったんですが、ごく自然に広がっていったという感じですね。そんな中で、ダライ・ラマ14世の呼びかけによる『聖なる音楽祭』が広島で開催されて、「平和の火」という原爆の残り火を3日間灯さないか、という話が来たんです。その仕事の後には、原爆ドームにも行きたくなり。原爆ドームに行ったら長崎に行かないのもおかしいから、長崎にも行く。じゃ、沖縄はどうなんだ?アイヌの人たちが北海道にもいて、、、と悲しみの場所を巡る旅が始まりました。行く先々で次に行かざるを得ない場所や、行ったほうがいいところが出てきて、それであちこち行くようになりました。
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