第4章 平和を祈るキャンドル・オデッセイ

山口
そういう活動をされている原動力はどこにあるのでしょう?
JUNE
基本的に、自分をアーティストと思っていなくて、“Candle JUNE”で完結しているんです。キャンドルを作っているJUNEだから、と。キャンドルを作ってそれを販売し、キャンドルを灯すことで空間の演出をし、それで得たお金で、生活もし、旅もする。アメリカの旅だけは、いろんな友人たちに話したところ、お金を提供してくれたり、映像を撮れるから、文章を書けるから、写真を撮れるから、とそれぞれ自分のできる分野で参加してくれて、大がかりな感じになりましたけど。それ以外は、頑張って働いて旅をするという個人的な動機によるものなんです。
悲しみの場所に行くと、いろんなことをたくさん教えてもらえるんですよ。そういう場所では、なんとなく生きているのではなく、自ら生きようとしているカッコいい人たちと出会え、いい交感作用が生まれます。変にNGO的になったり、ボランティアや平和活動家、アーティスト、政治家っぽくなったりではなく、一キャンドル・メーカーとしてできること、やりたいことを一生貫きたいと思っているんです。
山口
じゃあ、これからもずっと灯し続けていかれるのですね?
JUNE
“Candle Odyssey”というのを、活動のテーマにしているんです。みんな「戦争はなんだかんだ言って終わらないよ」とサクっと言うじゃないですか。今、現実的にいろいろ起こっている問題にしても、情報はたくさん入るわけですよね。でも、その情報は一方的なものが多いような気がします。しかも一般的な会話レベルでも「戦争は経済活動の一環だ」「石油の問題が云々」と、さもそれがリアリティのあるような話をしている。でも、そういったことに自分は飽きているんですよ。知ることはある種の進歩だけれど、そこで終わるんじゃなくて「それはもうわかったから、じゃあ、どうしたらそういうことが起こらなくなるのか?」というところまで、会話のレベルを上げなくちゃいけないと思っているんです。「なんだかんだ言って戦争は終わらないよね」じゃなくて「もう飽きたから終わりにしようよ」ということを日々伝えています。
山口
その具体的な現れが、ロウソクの光りを灯し旅をすることなんですね。
JUNE
今のところ自分にできるのは、ここ近年に悲しいことが起きた場所に実際に行って、明かりを灯すことなんです。すると、そこで出会った人たちとちょっと深いコミュニケーションがとれて、いろんなことが学べるんですよね。争いというのは、何か原因があって、悲しみが生まれ、また次の争いを生んで、という形でつながっていくのは確かだと思うんです。
その前の争いやそこで生まれた悲しみを、本当の意味で皆が学んで多くの犠牲となった方達に感謝を捧げる処までいけば、次の争いは生まれないんじゃないかと。
そしてまた「あ、これ平和だな」と思う瞬間を作っているような感じがするんですよ。たとえば被災地でロウソクを灯したとき、子供からおじいちゃん、おばあちゃんまでみんなが集まってローソクを囲んでいるその瞬間は、たぶん、そこにいる人たちみんなが「平和だ」と感じていると思うんです。たとえ数分でもです。
その瞬間は点でしかないけれども、自分がもっと多くの場所でそういった瞬間を作り出す事が出来れば、点が線になっていくと思うんです。また、そういう場所に行って行動を起こすことで、歌であったり、アートであったり、もっと実践的な活動であったりと、いろんな活動をしている人たちと出会うことができて、繋がりを広げていくこともできる。
山口
団体や組織を作るのではなく、個人でやり続けようとする姿勢がすばらしいと思います。
JUNE
アメリカでは教会やお寺でもロウソクを灯したんです。すると、入り口から入って正面にある祭壇や仏壇にお供えものをしますよね。そこにロウソクも灯すことになります。だから祈るときに全員、並んでそちらを向くことになる。そこには神様と自分、とのキャッチボールしかないんですよ。それは音楽のイベントでもそうで、ステージがあって客がいて、客同士はみんな同じ方向を向いている。その世界がすべてだと思ったら、これは無理があるなあ、と思うんです。
野外で灯すときは、まずそこに行ったら、作法として、自分が何者であるか、なぜここと灯したいのかを述べて、火を灯します。母なる大地と父なる空を意識し、東西南北を意識してロウソクを配置していくんですが、ある程度そうやって置いていくと、サークルになってゆくんです。
そこに人がいる場合は、みんなにも灯してくれと言うと、好きな色を選んで、やはりサークルを意識して置いていくんですね。で、置き終わってお祈りをするとき、教会だと同じ方向を向いていたのが、ここではきれいな人の輪ができるんですよ。
「ああ、これがいちばんいい形だな」と思うんです。みんながそれぞれの顔を見れて、同じ大地に丸くなっている。きっと、キリストや仏陀も人に話すときはこんなふうに輪になっていたんじゃないか、と思うんです。
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