第1章
昼は発掘、夜は衣装製作

山口
目の色が薄くていらっしゃいますが、以前に自分のルーツを調べてみたことがあると言われていましたね。
田中
小さいときから友だちに「あなたは日本人ですか」と訊かれることが多かったんです。両親は山形出身で僕は東京で生まれました。自分では当たり前のように日本人だと思っていたんですけれど。でも、あまりにも会う人会う人に訊かれるものだから、中学生になるかならないかの頃、自分のルーツをちょっと調べてみようと思ったんです。自分は何者なのかを知りたくなって。
ルーツを調べると言っても単純に親から家系を辿っていくくらいで、結局2世代前までしか辿れませんでしたが。そこで不思議だったのが父方の祖母なんです。旦那様より3歩下がって歩く、という典型的な昔の日本女性だったので、寡黙な上に、自分のことはなかなか話してくれず出生も掴めなかったんですが。88歳のときに米寿を親戚が集まってお祝いしたんです。その席で楽しくなったのか、ふだん無口な祖母が、いきなり英語の歌を歌い出したんですよ。山形の 片田舎で生まれ育ったはずなのに。みんな英語の歌が歌えるなんて知らなくて、度肝を抜かれました。
山口
じゃあ、もしかしたら少し向こうの血が混じっている可能性もあるのね。
田中
92歳で亡くなったので、結局、話は聞けずじまいでした。確かに祖母も日本人離れした容貌をしていましたね。
山口
先日は『リヤ王の悲劇』でご一緒しましたが、最初から舞台衣装を作ろうと思われていたんですか。
田中
もともとは既製服を作りたくて、文化服装学院に通っていたんです。でも卒業はしていないんですよ、ぼく。というのは、ぼくがいた当時、小池千枝先生が文 化の名誉学院長をやってらしたんです。高田ケンゾーさんや、コシノ・ジュンコさんが師事し、フランスから初めてボディを使った立体裁断を日本に持ってき た、と言われている方です。たまたまその小池先生の話を聴く機会があって、そこで「今、ほんとうはあなたたちのような人に直接、1対1で向かっ て服作りを教えたい」と、少人数制の教室を開催される構想を語られたんです。それでこの先生に教わってみたい、と思い、面接を受けたら、受かったんです。文化服装学院3年生の始めから小池先生の教室に通うようになり、そのぶん学校の単位が足りなくなり卒業はできませんでしたが、学校には3年間ちゃんと通ったんですよ。
山口
舞台の世界に入られたきっかけは? が初めての出会いの場になるということなんですね。
田中
文化服装学院に通いながら同時に、セツ・モードセミナーにも潜り込んで授業を受けていたことがあったんです。そこでデザイナーの太田雅公さんに出会ったんですが、偶然にもいろいろな場所で会い、何回か挨拶する程度の顔見知りだったんです。それからしばらくして小池先生の教室に通っていた時「今度、舞台衣裳の仕事を手伝ってくれない」と言われて。ちょうどタイミングが合って、それがきっかけで、舞台の世界に入りました。
山口
太田雅公さんと仕事をされて3年くらいになりますか。
田中
はい。
山口
そうした舞台衣裳の仕事と平行して、遺跡の発掘もされていらっしゃる。今、昼間は遺跡発掘、夜は舞台衣裳を作るという二重生活をしていらっしゃるのですね。
田中
そうですね。舞台衣裳の仕事がつまると遺跡発掘のアルバイトを休ませてもらっています。
山口
服作りと発掘作業はかけ離れた世界にも思えますが、そもそも発掘をしようと思ったきっかけは何だったのですか?
田中
文化服装学院の学生だったときにアルバイトをしてみようと思ったんです。服だけを作っているんじゃつまらなかったので、ちょっと違うことをしたかったんです。服を作る仕事に就くために学校に通っている人は、ふつうアパレル企業系のアルバイトをするんですが、ぼくはそういうのがしっくりこなかった。服・服・服・服、と服作りに浸る生活もいいと思うんですけど、その時は何かもっと違うことをしたかったんです。それでアルバイトを探していたところ、遺跡発掘のアルバイトを募集していたんです。女性募集と書いてあったんですが、興味があったのでダメモトで電話をしてみたら「じゃ、明日から来てください」と。それが始まりです。
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田中洋介×山口小夜子