第2章
修業時代、そしてデザイナーへの道

  • 山口

    ふつうの高校で高校生をされていて、デザイン画はもともと描けていたんですか?

  • 津村

    絵は得意だったから、わりとすぐに描けたんですよ。専門の学校には行ってませんでしたけど。で、いきなり描いて応募しちゃって。3回くらい装苑賞に応募したときに、通知が来たんです。「応募したうちの1点を作りなさい」と。でも、作るほうはさんざんでした(笑)。なにしろ縫ったことがないし。家にあるのが足踏みミシンだったんですよ。あれ、慣れないと逆回転するじゃないですか。母親が教えてくれたんですけれど、素人の高校生には難しくって。おまけに選んだ生地がベルベットだったんです。いい生地を使えばなんとかなるだろうって(笑)。...なんですけど、もう、縫えない、縫えない。ミシンじゃ縫えないから手縫いにして。たいへんでしたね。

  • 山口

    モデルさんにも着せたりするでしょう。そういう場も初めてだった、と。

  • 津村

    ふつうの高校生でしたからね、もう、びっくり。文化学院に行くと、文化の生徒たちがみんな友だちと一緒に、ワイワイ楽しげにやっているわけですよ。ぼくは一人でぽつんと。編集部の人たちに、「これ、どうします?」と聞かれるんだけれど、何を聞かれているのかもわからない。「ヘアの感じは?」って...「ヘア?そんなものまで考えるのか!」と。まぁ、そういう状態でしたから、結局...最下位。それでファッション学校に行かなくっちゃ、と思ったんですが。...その頃は文化服装学院に行く、というのが一つのセオリーのようになってたんですね。そのとき一緒に本審査に選ばれたメンバーも、菱沼良樹くんに、森孝之さん、石川ヨシオさん、前田修さん、津森千里さんと、やはり文化服装学院だったし。

  • 山口

    花の6人集のような華麗なメンバーですね。

  • 津村

    それで当たり前の道にはまるのも嫌だな、となぜか思ってしまったんですよね。だからその頃はあまりファッションに力を入れていなかった東京デザイナー学院に行ったんです。

  • 山口

    じゃ、そこで基本的なことを学ばれた。

  • 山口

    いや、あのね。あの頃、菱沼君たちと“変わった服バトル”みたいな感じになってしまって(笑)。だからスタイル云々という意識がとんでたみたい。それで、ぜんぜんダメだから、やめよう、と思ったんです。だめだろう、と。デザイナーになるのはやめて、古着屋でもやろうか、と。で、次に「作ってください」という通知がきたときに、これが最後だ、と思ったんです。そのとき2点選ばれていたんですが、どちらか好きなほうを作りなさい、と言われていたんですね。ぼくはパンクが好きだったので、よりパンクなデザインのほうを創りたかったんだけど、もう片方のほうが賞を穫れるな、という予感があって、好きなほうを捨てて穫れるほうを選んだんです。でも出来上がってみたら、思いの外小さくなって、迫力がないんですよ。マズイなぁ、と思っていたところ、ちょうど編集の人が小さなモデルさんに着せてくれたのが良かった。大味な感じのところがキュッとしまって、エッジがきいてとてもキュートな感じになって。それで穫れたんです。

  • 津村

    そのときの審査員は?

  • 山口

    花井幸子さん。でも、山本寛斎さんも山本耀司さんも、みんなOK出してくれたし。「君はパンクなんだね」と言われました。

  • 津村

    その後、三宅デザイン事務所に入られたんですよね。

  • 山口

    しばらく小さいメーカーでそのまま仕事をしていたら、三宅デザイン事務所から「来ない?」って呼ばれたんです。

  • 津村

    津村さんが入った頃の三宅デザイン事務所は、毛利さんがいて...。

  • 山口

    そう、毛利さんがいて、小野塚さんがいて、すごい世界でしたね。で、面接に行ったら、『ISSEYMIYAKE』の『MEN』をやってよ、と。しばらくやってたら、事務所の会議のようなものがあって、小野塚さんが「あの子、ちょっと変わっているからイメージ作らせたほうがいいんじゃないの?」という話になったらしいんです。それでいきなりパリコレやることになったんです。