第1章
横浜グラフィティ

  • 山口

    順子さんって、表に出る側じゃないけれど、ずっとそういうイメージがあるんです。モデルや女優にならないか、という声もあったでしょう。

  • 浅野

    そういう話はあったんだけど、それがね、束縛されるのがダメなのよ。時間にルーズだから。興味もまったくなかったし。

  • 山口

    自由を求めるタイプなのね。

  • 浅野

    親に育てられている頃からそうだったの。一人っ子で、ましてや親が年取ってからできた子だったから、関心がぜんぶ自分に来ちゃう。だからいつも、親から早く離れたいと思っていて。で、初めて一人暮らしをしたときに、何がいちばん嬉しいかって、何も言われずに夜中にお菓子でも食べられることだったり。

  • 山口

    お母様が順子さんをお産みになったのはいくつくらいのとき?

  • 浅野

    39歳。母はお洒落な人で、華やかで綺麗な人だったのね。元芸者さんで、ソシアル・ダンスのチャンピオンでもあった。ただ、几帳面な人だった。たとえば掃除にしても、毎日、押し入れの中のものをぜんぶ出して、片づけて、畳はお茶ガラ撒いて掃いて、雑巾で拭いて、乾いた布で拭いて、というような。もう、毎日、親の敵みたいに(笑)。その几帳面さが私とはまったく違っていて。うるさいな、と思ってしまうところなの。だって、子供のときに最初で最後のおねしょをしたときに、夜中にパンツを洗わされたのよ。「なんだろ、この人」って怨んだよね(笑)。

  • 山口

    ご両親は日本で結婚されたの?

  • 浅野

    そう。で、お見合いなの。すでに外国人と結婚している母の知り合いがいて、その人のお友だちを紹介してもらったみたい。うちの母は小柄な人でしかも恐がりだから、お見合いでちゃんと紹介してもらったんです。

  • 山口

    じゃあ、ご両親とも日本にいらして、順子さんも日本で育ったのね。

  • 浅野

    途中で父はアメリカに帰った。ほんとうは母も向こうに一緒に行くはずだったんだけど、やっぱり怖かったんだろうね。父は母より十歳以上年下で「息子ほど年が違ったのよ」なんて私には言うけれど。それで向こうに行って、もし何かあったときに私を抱えてどうするんだろう、というので怖くなって断念して。父親とも離れちゃったから、余計に私が「自分のすべて」みたいな感じになったんだと思う。

  • 山口

    育ったのは横浜で。

  • 浅野

    その頃は横浜の弘明寺にいたかな。この間も行ったんだけど、下町の人間関係が残っていて、ほんとうに居心地のいい場所なの。商店街を通ると、未だに「危ないじゃないの!」って頭を引っぱたいて助けてくれるような近所におばさんがいたり。そこにいたときは母もまだ華やかで、父親が送金してくるお金を銀行に取りに行った帰りに、美容院に寄ってきれいに髪をセットして、ダンスを踊って、スバル座で映画を見て帰ってくる、みたいなそういう生活だったの。きっとそういうのがあったから、居心地のいい下町に住んでいても、私を東京に来させちゃったのかな。横浜の幼なじみを見ていると「よく東京に出たわね」みたいな感覚ってあるの。東京はお洒落して遊びに出かけなくっちゃ、というところなんだけど、住むには大変なところ、というイメージがあるじゃない?

  • 山口

    あ、横浜ってそういうのあるね。

  • 浅野

    そんな生活を送っていたから、私も小学生の頃から電車に乗ってどこかに行って何か探してきたり。中学生の頃は先輩が主催したパーティに加わったり、高校生になったらセントジョセフ・インターナショナルのパーティにも行ったりしてた。

  • 山口

    セントジョセフは、私のいとこが通っていたから、そのパーティの話も聞いていたけれど、なんか憧れの素敵な世界でした。

  • 浅野

    お金がなくて華やかなドレスなんて買えないから、自分で布を買ってきて、バッグや靴に貼ったり、服を飾ったりして、パーティに出かけていってました。

  • 山口

    あの頃は横浜には外国人の家庭がいっぱいあって、その子供たちがたくさんいたんですよね。アメリカン・カルチャーの色合いが強くて。

  • 浅野

    ベースの中の人たちがいらなくなったものを供出して売るお店があったんですよ。そこにはスキーの板から子供服まで、何から何まで出る。その売上金をアメリカン・スクールなんかに寄付していたの。途中から東京の古着屋さんたちも買いにくるようになったかな。Tシャツなんか5円や10円だから、結婚して子供が生まれても、自分の分もパパの分も、子供たちの服も、そこに買いに行ってた。お金がなかったから。

  • 山口

    そういう経験を生かして、のちに古着屋を開いたりされるのね。あの辺りって今はマイカルでしょう。

  • 浅野

    あの開発のときに、これからはどういう本牧がいいか、という話し合いの席に横浜にいる親友のサリーも私も加わったんです。結局、今ではほんの少ししか当時の面影は残っていないけど。